えええっせい

えっせいです

三四郎:つまるところさ

 日本語に厳しい職場にいる。

 私の所属する企業は、パワーポイントで描いた巨大な餅を、とんでもない値段で販売することで収益を上げている。だからこそ、そのパワーポイントたるや、とてつもない労力を割いて作り上げられるのだ。少しの日本語のミスも見逃せない。

 そうすると、その末端を担い餅をこねる係をしている私の日常生活も、自ずと日本語の厳しさという色眼鏡で通したものになる。例えば、飲食店のメニューを見ると「これって構造化出来てないよね」「そうだよね」という会話を同僚とこなす。冗談交じりで会話をするが、気付くと二人の頭の中にはベストな回答が出来ている。恥ずかしくて、お互い言い合ったりはしなけれど。

 会話の種になるならまだマシ。この前本当に気になったのは、小説。それも大家・夏目漱石の作品だ。その名も、「三四郎」。

 三四郎を読んでいても読んでいなくても構わないのだが、一応ざっくりとあらすじを説明する。主人公の三四郎は熊本の田舎から出てきて、今でいう東京大学の学生をやっているという超インテリ地元の誉れなのだが、いかんせん理屈っぽいために女に手が出せない、でも周りにはずらりいい女。そういう話だ。要すれば、主人公は童貞で皮肉屋風の純情BOY。

 そのインテリが言っていた。

「……つまるかつまらぬかは……」

 周りの文言は覚えていない。が、意味は「面白いか、面白くないか」ということである。

 ……「つまる」ってナニ!?

 私が30年近く生きてきて、面白いことを「つまる」と言ったことも聞いたこともない。いや、冗談めかして「これはつまる……ギャハハハ」みたいな会話はあれども、真顔で「これめっちゃつまるねん」とは聞いた覚えはない。

 これは間違いなのか。姪っ子が言っていたら間違いなく「そんな日本語は無い」と直ちに訂正するが、敵は月が綺麗ですねアイラーブユーイマダケハカナシイウターなので権力を笠に着やがってコノヤローという状況。

 結局のところ、どんな発現も「誰が」言ったかが非常に大事なのだという身も蓋も面白味もない結論に帰結してしまう。千円札が「これは、つまるっ!」と言えばそれは面白いのだ。しかも相手は死人で、これから裸の王様になる心配はない。もし世界が全て彼の敵に回ったとしても、彼一人だけが「いや、つまるという言葉はつまり面白いという意味なんです」と主張して世界を敵に回そうとも、痛くもかゆくもないのだ。無敵の人とは彼のことかもしれない。ここはひとつ、彼にベットしたい。絶対負けないから。

 ということで、今後私も「面白い」を「つまる」と表現していく。とても面白ければ、「マジつまる」。箸が転んでも「つまる年頃」。便器が詰まれば面白い。面白い海峡冬景色、と来たもんで、つまるところ、ええと何が言いたいのかというところ、つまるところが「面白いところ」っていうのは、なかなかどうして間違ってはいないだろうということろで、今日はご勘弁願いたい。

 願わくばこの文章がつまらんことを。